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「食」に関するインタビュー
uniceメニューに掲載用原稿

食欲というのは、人間の欲求の中で最も粗野なものだと思う。一日に三回も欲しくなり、満たすとすぐに要らなくなる。それに比べると、性欲なんてかわいいものだ。食べないと体温をキープできないし免疫力も付かない、つまり食欲は生命維持に関わるものだと言われるかも知れないが、セックスレスだって個どころか種の保全の危機に瀕させる。必要に迫られるのと、楽しむという境界を曖昧にできるところも含めて、同じ階位の「欲」という扱いができると思う。財欲/名欲/睡眠欲と並列する五欲でもあるわけだし。ほとんど全ての人に毎日朝/昼/晩と満たすことを要求してくる食欲とは、果てしなく強力なものに違いない。というわけで、生活の中で多くを割くことになる食事行為は、人生や時間を切り取った「映画」というジオラマにも多く登場する。
食事のシーンがない映画というのは探すのが難しいほどだが、「The Godfather」シリーズには印象的な食事シーンがとても多く登場する。シリーズが始まるのも、一代目Godfatherヴィトーの娘、コニーの結婚式で、マフィアの娘の結婚式とは思えないほど明るく家庭的で開放的なガーデンパーティのシーンからである。Part2冒頭の二代目Godfatherマイケルの息子、アンソニーの聖餐式の自宅パーティや、大物マフィア、ハイマン・ロスのハバナのビルの屋上での誕生日パーティなど、思わずそこに参加したくなるほど(?)オープンで和やかで、そして楽しそうな屋外での食事シーンが何度となく現れる。マフィアであろうが労働者であろうが政治家であろうが、シチリア人の食べること自体に対する愛情が立場や身分に関わらないことがよく表れている。一人で食べるよりも二人で、二人で食べるよりも五人で、五人でなら十人で・・・と、人数が多いほど食事がおいしくなるのを彼らがよく知っているということも、コッポラは意識的か無意識的か表現している。充実していて幸せな境遇にある人物が、一人で食事をするシーンはない。
家での食事のシーンも多いが、そこにもたくましい哲学がある。必ず何があっても、家の者全員が集まらないと始まらないのだ。我が家での食事やダイニングルームが、彼ら家族の象徴なのだ。もちろん、このシリーズ映画は、残虐で血みどろのマフィアの抗争を描いたものだ。しかし、食事(しかも、アメリカに移住しても脈々と受け継ぐシチリア人ならではの)という素朴で家庭的な日常行為のシーンをうまく挟み込む天才的な演出があるからこそ、その裏で行われている違法な策略や執拗なほどの猜疑心もリアルになり、深みのあるコントラストが全体に付いている。
ストーリーは、コルレオーネファミリーが権力と金を手に入れるのと引き換えに家族や愛する者を失っていく方向に進んでいくが、それに従って大勢での食事のシーンも減っていく。逆に、一代目ヴィトーの貧乏だが活気に満ちた駆け出しの時代や、二代目マイケルの孤独だが正義感にあふれていた青年時代のシーケンスには、必ず賑やかな食事シーンが登場する。人間味あふれる家族や仲間などのメタファーとして食事があるとすると、冒頭で述べたその「野性的な欲求を満たす行為」という性格とはあまりにも対照的に思えるのが不思議だ。だが、野蛮な行為だからこそ人間的でありたいと太古からバランスを取ってきた、シチリア人に限らぬ人類種の名残のようなものがコッポラ家の食卓に正直に置かれていたからこそ、ソフィア・コッポラという虚実について素晴らしいバランス感覚を持つ女性監督が育ったのではと考えると、個人的な憶測ながらうなずけるのである。
