« Waterloo Bridge(哀愁)の真相 | TOP | Diesel X Weathercast »
空気人形
もはや日本を代表する監督、是枝裕和最新作を試写にて拝見。
人形に心が宿り動き出す、というメルヘンチックなコンセプト。
しかし、「幻の光」「誰も知らない」でも焦点であった人の関係性がテーマである。
あくまでも、人形は人間をよく観察するための外部の視点である。
個人的には、心を持った古びたブラジル産ロボットでもう10年も歌っているので、すんなり共感できた。
人間のような人形、人形のような人間。
その境が、徐々になくなってくるのが面白く、切ない。
ダッチワイフという、恋人の代用のまた代用のような存在。
人間社会の、人ではなく労働力として扱われる「ハケン」のようなものに置き換えられる。
自覚した人形もそのことを悲しみ、不遇に怒りを感じる。
周りの人間、特に女性の設定が面白い。
過食症の女、歳を取ることを異常に怖がる女。殺人事件が起こる度自分を犯人だと言い張る女...
人形は、食べず老けず死にもしない。
その特性を一人ずつ分散させたキャラクター設定になっているのである。
人形はそれらの人間に揉まれ弱みや欠陥を見るうちに、逆に彼らの人生の一回性の美しさに気付き惹かれる。
そして、まさに命綱である空気ポンプを自分で捨てた瞬間、この世の風景が全く違って見えてくる。
川を渡る風に命を感じ、見知らぬ人と手を振り合うことに幸せを感じ始める。
何度も人形が呟く「私は誰かの代用品」という台詞。
人間社会に置き換えて社会問題としても容易に提議できることだが、僕は代用品であることがそれ程嘆くべきことだとは思わない。
誰かが代われるということは、見方を変えれば自分も誰かの代わりになれるということで、それが社会性というものだ。
全く他者との関わりのない人間なんて居ないし、大きさは違えど全員が歯車であるはずだ。
時間の使い方が下手な人間に限って時間のなさに不平を漏らすように、「人間は使い捨てか!」と訴える人に限って自分独自の強さを持つために努力していないように思える。
特異な創作活動が独特な作品をつくると勘違いしているクリエーター程つまらない、というのとも似ている。
芸術とは、地味で地道なプロセスがどこかで花開くことだと僕は信じる。
真に人に取って代わることのできない存在を目指すなら、恐ろしい覚悟をしなければいけないはずだ。
自分がそういう努力や覚悟をせず、世の中に「人間を使い捨てにしないで」と求めるのは短絡である。
引用されている吉野弘「生命は」という詩(片言の人形が突飛に饒舌にナレーションしグッと来る)には、そのことが内包されているように感じた。
主演のペ・ドゥナの柔らかさと堅さの融合した演技は、文句なく素晴らしい。
余貴美子だけ悪くなかったが、他の役者は良くなかった。
制限があり、自由に演じさせてもらえていない雰囲気も感じた。
音楽も、色んなボーダーを超える力強さを内部に秘めているようには感じなかった。
後半特に長く感じた。
原作は20ページの漫画とのことで、話の芯になっている部分はこれ程長くすべきものではないのだと思う。
人形がハッピーバースデーを歌ってもらいサプライズケーキをもらい涙を流すシーンで終われば、とてもよかったのにと思う。そこが、人間と人形の垣根を本当に越えた瞬間であったはずだ。
無理矢理「こちら側」が一方的に希望を持てるようなエンディングになったのは、気に入らない。
存分に生きて死んでいくことこそが美しい、「こちら」と「あちら」なんてない、というのが言いたいことではなかったのか?
そこら辺は差し引いても、リー・ピンビンの初春のような淡い空気を封じ込めたカメラワーク含めて観る価値は充分にある。
9/26公開。
