新作タイトル・ジャケット・曲目
4thソロアルバム「Children's Songs 2050」
2009.11.25発売
01. Ah! Vous Dirai-Je, Maman(きらきら星 / France)
02. U’sh’avtem Mayim(マイムマイム / Israel)
03. The Rainbow Connection(レインボウ・コネクション / USA)
04. Che Che Kule(チェッチェッコリ / Ghana)
05. Memories of Summer(夏の思い出 / Japan)
06. La Cucaracha(車にゆられて / Mexico)
07. Song of the Seashore(浜辺の歌 / Japan)
08. From the New World(新世界より / Czech)
09. Magtanim Ay Di Biro(田植歌 / Philippine)
10. Volevo Un Gatto Nero(黒猫のタンゴ / Italy)
11. Letka Jenkka(ジェンカ / Finland)
12. Heidenröslein(野ばら / Germany)
13. Polyushko Pole(ポーリュシカ・ポーレ / Russia)
14. When You Wish Upon a Star(星に願いを / USA)
15. Auld Lang Syne(蛍の光 / Scotland)
詳細は追々。
Permalinkmastering & secret live
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mastered by masato morisaki at saidera mastering (blog)
U-maticの音が大好きだったのですが(0.1の部分にあった情報が、0.09や0.11に分散される感じ?=緻密でないけど情報量が増える感じ)、さすがに時代遅れでSonyのサポートも切れたとのことで、デジタルマスター。
でも、「元からU-maticの音にしましょう」とのことで、森崎さん奮発していただきました!
きいていて楽しい音になりました。
11/25発売予定!!
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an unofficial live at claska
いつも切っていただいている美容院の10周年パーティーにて。
招待客だけだったので告知はできませんでしたが、200人位の盛況。
秋の夕暮れパーティーはいいね。
スタッフの皆さんお疲れ様でした。
yoshiさんありがとう!
儀式
連休明けの駒沢公園の正午。
天気もよく、閑散としている訳でもなく。
老夫婦が長年変わらず経営していると思しきベーカリーで、昔ながらのパンを二つとペットボトルの紅茶を買う。
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丹下健三作品の影に入り、iPodに入れた新作アルバムを15曲通してきく。
10月にしては暑く、二つ隣のベンチで男がTシャツを脱ぎ本を読んでいる。
2005年の「WITH ROBO*BRAZILEIRA」もミックスが完了した後、ここに座ってきいた。
あのアルバムは、僕を遠くまで連れて行ってくれた。
フィジカルにも、内方にも。
その後、コンピレーションやコラボレーションアルバムをつくり、仕事にも追われ全く休む暇はなかったが、気付けば4年も純粋なソロアルバムはなかったんだな。
今回はスタッフも多く、「まだ世の中の誰も通してきいたことのないアルバムをきく」という贅沢はないが、儀式は儀式である。
尤も、感慨に耽る甘さは今回はなかった。
気になる部分が出てきて、そそくさと戻り修正作業に入った。
明日はマスタリングである。
ある振動で定着され、僕の手をいよいよ離れてしまう。
この作品と併走したりかけっこをしながら、僕はどれ位遠くまで行くだろう。
トンネルの後に見える月
先週、宮坂淳さん宅で福田透さん、須田泰成さんとメンズ焼き鳥の会。
会話が楽しく、久しぶりにリラックスした。
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夕方曇り空だったが、後半は中秋の名月。
そうだ、とふと気付いた。
これはただの頭上の月ではなく、昨年から陥った長いトンネルを抜けた後に見えている月だ。
周囲に惑わされず、ペースを崩さず、果敢に戦う日々も、現在仕上げ中の曲でほぼ終わり。
過酷な旅の果てで僕が見た美しい風景を、江湖に放とう。
雲と一回性
連休なぞは関係なく缶詰。
急に、広い場所に行って空を見たくなった。
自由が丘と首相宅をスルーし、多摩川まで30分程。
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ちょうど夕日で、眺めながらGuinness。
広い視界の中で刻々と色と形状の変わる雲を見るだけで、こんなにホッとするなんて。
春から僕の口癖は「ああ、やらんと!」
しかし、もう少し。
そう簡単には正体を現してくれない本当の自分を探す道程。
楽しかろうが、辛かろうが、今やっていることはもう二度と来ない、人生の一回性の美しさ。
空気人形
もはや日本を代表する監督、是枝裕和最新作を試写にて拝見。
人形に心が宿り動き出す、というメルヘンチックなコンセプト。
しかし、「幻の光」「誰も知らない」でも焦点であった人の関係性がテーマである。
あくまでも、人形は人間をよく観察するための外部の視点である。
個人的には、心を持った古びたブラジル産ロボットでもう10年も歌っているので、すんなり共感できた。
人間のような人形、人形のような人間。
その境が、徐々になくなってくるのが面白く、切ない。
ダッチワイフという、恋人の代用のまた代用のような存在。
人間社会の、人ではなく労働力として扱われる「ハケン」のようなものに置き換えられる。
自覚した人形もそのことを悲しみ、不遇に怒りを感じる。
周りの人間、特に女性の設定が面白い。
過食症の女、歳を取ることを異常に怖がる女。殺人事件が起こる度自分を犯人だと言い張る女...
人形は、食べず老けず死にもしない。
その特性を一人ずつ分散させたキャラクター設定になっているのである。
人形はそれらの人間に揉まれ弱みや欠陥を見るうちに、逆に彼らの人生の一回性の美しさに気付き惹かれる。
そして、まさに命綱である空気ポンプを自分で捨てた瞬間、この世の風景が全く違って見えてくる。
川を渡る風に命を感じ、見知らぬ人と手を振り合うことに幸せを感じ始める。
何度も人形が呟く「私は誰かの代用品」という台詞。
人間社会に置き換えて社会問題としても容易に提議できることだが、僕は代用品であることがそれ程嘆くべきことだとは思わない。
誰かが代われるということは、見方を変えれば自分も誰かの代わりになれるということで、それが社会性というものだ。
全く他者との関わりのない人間なんて居ないし、大きさは違えど全員が歯車であるはずだ。
時間の使い方が下手な人間に限って時間のなさに不平を漏らすように、「人間は使い捨てか!」と訴える人に限って自分独自の強さを持つために努力していないように思える。
特異な創作活動が独特な作品をつくると勘違いしているクリエーター程つまらない、というのとも似ている。
芸術とは、地味で地道なプロセスがどこかで花開くことだと僕は信じる。
真に人に取って代わることのできない存在を目指すなら、恐ろしい覚悟をしなければいけないはずだ。
自分がそういう努力や覚悟をせず、世の中に「人間を使い捨てにしないで」と求めるのは短絡である。
引用されている吉野弘「生命は」という詩(片言の人形が突飛に饒舌にナレーションしグッと来る)には、そのことが内包されているように感じた。
主演のペ・ドゥナの柔らかさと堅さの融合した演技は、文句なく素晴らしい。
余貴美子だけ悪くなかったが、他の役者は良くなかった。
制限があり、自由に演じさせてもらえていない雰囲気も感じた。
音楽も、色んなボーダーを超える力強さを内部に秘めているようには感じなかった。
後半特に長く感じた。
原作は20ページの漫画とのことで、話の芯になっている部分はこれ程長くすべきものではないのだと思う。
人形がハッピーバースデーを歌ってもらいサプライズケーキをもらい涙を流すシーンで終われば、とてもよかったのにと思う。そこが、人間と人形の垣根を本当に越えた瞬間であったはずだ。
無理矢理「こちら側」が一方的に希望を持てるようなエンディングになったのは、気に入らない。
存分に生きて死んでいくことこそが美しい、「こちら」と「あちら」なんてない、というのが言いたいことではなかったのか?
そこら辺は差し引いても、リー・ピンビンの初春のような淡い空気を封じ込めたカメラワーク含めて観る価値は充分にある。
9/26公開。
Waterloo Bridge(哀愁)の真相
この1940年制作のクラシック映画が、なぜ今僕の心を捉えたのかわからない。
結婚を約束した相手が戦死したという報を受けて錯乱したからにしろ、どうやっても生計が成り立たなかったからにしろ、いかなる理由があったとしても、売笑してしまったことの自責と悔恨が自分の中で雪だるまのように徐々に大きくなり、しまいに自殺してしまう可憐な女性。
というのが、美しい物語の捉え方だろう。
Vivien Leighの印象しか残らない程存在感に溢れる繊細な演技も、ストーリーにしっかり寄り添っている。
僕はちょっと違う風に思った。
彼女を自殺まで追いやった本当の理由は、自分が愛されていないと知ったことだ。
婚約者である将校のあまりに性急な求婚、「顔を忘れていた」という言葉等。
相手にこだわりはなく、誰かとの結婚自体が目的であるかのようだ。
また将校は、戦死したという報を受けて彼女が廃人のようになっている、という情報を母からきいたはずだ。
ならなぜ、「それは誤報で、自分はちゃんと生きているから安心しろ」と彼女に伝えなかったのだろう。
彼女を愛していれば、何としてでもそれを伝えることを最優先したはずだ。
客を取る彼女と偶然戦地から帰った将校が駅で再会した時のちぐはぐな感じは、彼女が娼婦として道行く男に色目を使っていたことを見られて困惑しているからではない。
どうして生きているならそれを教えてくれなかったのだろう、という懐疑から来る戸惑いである。
から元気に振る舞う将校も、白々しく感じられる。
なにかい?ここで偶然会わなかったらそれまでだったの?結婚の約束はそんなものだったの?と。
ダンサーである彼女に対する将校の身内の冷ややかな差別もしっかりガードしきれていない印象もある。
行方不明になった彼女を探す将校の、彼女はもうどうしても見付からないだろう、という諦め。
そういう、愛されていないかもという疑問を膨らませる材料がそれを確信に変えてしまったから彼女は死んだ。
シーンやパワーバランスは少なく、あまりそこら辺に目線が行かないようになっているが、話の本筋はそこだと僕は思った。
そう思うと、本当に不憫で、涙を誘う悲しい話である。
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この映画全編に渡り色を添えているこの曲の優美なワルツヴァージョンを、まだ幸せだった頃のまさにこのシーンの台詞も併せて、アルバムの最後に敬意をこめオマージュとして収録する。
スコットランドのSophieさんに歌ってもらった。
原題「Auld Lang Syne」とは、英語だと「Old Long Since」、日本語だと「久しき昔」。
「my dear」(恋人よりは友人)と、旧交を温める歌詞である。
刻まれた夏
足が付かないプールの中から見た空
廊下のござ、よしず越しの夕日
我慢できず泳いだボウフラだらけのダム湖
戸隠の静謐さ、冷たい水道水、とうもろこし
7-10時の朝練
バンフスプリングスホテル
パラソルの下で間近で見た首筋
河原でのワインボトルラッパ飲み
ハリーのふさふさしたお尻と落雷
トゥールーズの芝生、言葉の不要な共有物
肉体と精神は一体である、とは自分の深部に向き合わない人の弁である。
肉体は常に無意識で安定を目指すのに対して、自分を追求する精神はそれを危険に晒すことを厭わない。
3作も自分の一部を引きちぎるように分身を生み出したはずなのに、まだそこから湧き出る疑問とは一体何なのか。
普段の仕事で培ったはずの技などというものは一切役に立たず、初期衝動と現物の落差に途方に暮れ、次の座標を目指すための足元もおぼつかない。
自己嫌悪が甚だしい陶酔であることも知っているから、それに浸ることもできない。
目的地に最速で到達する手段が、奇抜さではなく正直さであることを知り愕然とする。
それが、自分の本当の姿を追う芸術家の現実である。
斧を振り下ろし続ける4作目の制作過程は、ひとつの刻まれた夏になろう。
Permalinkさばの湯
友人の須田泰成さんが開店した経堂のさばの湯へ。
銭湯ではなくて、銭湯風!飲み屋(笑)。斬新である。
下北沢のSlow Comedy Factory(スロコメ)に続く2号店。
宝塚から幼馴染みの学が来ていて、どうせ飲むなら、と。
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番台カウンターでベルギービール(やっぱりOrval)と関西風おでんとたこ焼きおむすび(ソース界のロマネコンティと呼ばれるヘルメスソースを少しかけ)を注文しつつ、ゆったり富士山画を眺めながら食する。
須田さんの風通しの良いオープンな人柄もそのままに、スロコメよりさらにゆるくアットホームで、最高にリラックスした時間を過ごした。
Permalinkmy summer desktop 2
アルバム作業でこもりっきりにつき、せめて脳内トリップ。
I'm traveling just in my brain for a concentration on the next album.
よければどうぞ。
For you.
took here in 2006
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